鎌倉七福神めぐり

約8.0km 約12.400歩

散策コース

 (集合場所)北鎌倉西口→浄智寺(布袋和尚)→鶴岡八幡宮(弁財天)→宝戒寺(毘沙門天)→妙隆寺(寿老人)→

  本覚寺(恵比寿)→御霊神社(福禄寿)→長谷寺(大黒天)(解散)

恵比寿→日本→商売繁盛の神様。狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱える姿が一般的です。

大黒天→インドと日本(大国主尊)→豊作の神様。 左肩に大きな袋を背負い、右手に打出小槌を持つ姿が一般的です

弁才天→インドから来た女神→学問と財福の神様。七福神の中で唯一の女神であり、琵琶を弾く姿が一般的です。

毘沙門天→インドがルーツの勝負事の神様。 左手に宝塔、右手に三叉戟(先が三つになった槍)を持つ姿が一般的です。

布袋→中国唐末期の僧がモデル(弥勒の化身)→開運・良縁・子宝の神様。大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれるのが一般的です。

福禄寿→中国道教出身→南極星の化身→長寿と幸福の神様。  短身長頭で経巻を結んだ杖を持つ姿から、寿老人と混同されることがある。

寿老人→福禄寿に同じ→福徳・長寿の神様。手には不老長寿の桃や、杖や軍配を持つ姿で描かれることが一般的です

 

七福神とは、7と言う幸運の数字にあやかり、財宝と長寿の神を選択集結させた集合体です。

6体の財宝神→恵比寿、大黒、弁才天、毘沙門天、布袋、福禄寿。2体の長寿神→福禄寿、寿老人。

1体のガードマン→毘沙門天。七福神と言う考え方が成立したのは、室町時代と言われている。

 当時、同じ種類のものを目出度い数だけ寄せ集めることが流行した→5山、十刹、八景、七観音。

 

「七難即滅 七副即生」は、仁王経(仁王護国般若波羅密教)に説かれている経文で、「あまたの災難はたちまち消滅し、多くの福徳に転ずる」 という転禍為福の考えから七福神への信仰が生まれたのです。

即ち、世の中の七つの大難はたちどころに消滅し、七つの福が生まれるということ。つまり「難を滅ぼし福を呼ぶ」という意味です。

七難とは→太陽の異変、星の異変、風害、水害、火災、旱害、盗難

七福とは→寿命、有福、人望、清簾、威光、愛敬、大量

 

七福神の由来・起源・発祥

七福神は、福徳の神として、古くより信仰されている七神で、恵比寿神、大黒天、毘沙門天、弁財天、福禄寿・寿老人、布袋尊をいう。もともと、個別に福神として信仰を集めてきたが、七福神になったのは、仁王般若経の「七難即滅 七福即生」に基づくなどとの諸説があり、室町時代初期にうまれた。

仁王護国般若波羅密経(仁王経)というお経の中に「この経を購読するときは七難即滅して七福即生し、万世安楽、帝王歓喜し給う」とある。国家安泰、万民豊楽を祈念し、年の初めに全国の各寺で読諭されるこの経文に因んで七福神が組合わされました。

 人間の七福を七神に求めて、有福は大黒天、愛敬は弁財天、威光は毘沙門天と印度から渡来した神々に、そして中国伝来の寿老人には長寿を、福禄寿には人望を、布袋和尚には大量を願い、日本古来の恵比寿さまには清廉、正直を求めたのであります

 

 神格化が早く進んだのは恵比寿と大黒であった。

最古の七福神巡り、京都七福神巡り→寛政年(1789~1801)

江戸時代には特に正月元旦から七日までの間に巡拝すると一年間の福を得られると人気になった。



1、浄智寺(じょうちじ)→神奈川県鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。臨済宗円覚寺派に属する。

鎌倉五山第4位。

開山   南洲宏海 大休正念 兀菴普寧

開基   北条宗政 北条師時

本尊   三世仏如来

 

 五代執権北条時頼の三男宗政の菩提を弔うため、夫人と子師時が創建した(宗政は師時の父)。

山号を金宝山(きんぽうざん)と称する。本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴する。境内は「浄智寺境内」として国の史跡に指定されている。

 浄智寺の山門は、中国式鐘楼門といわれる珍しい様式の門。花頭窓(カトウマド)がある二階には梵鐘が吊るされている。

 開山に招かれたのは、南洲宏海であったが、任が重いとして、師の大休正念を迎えて入仏供養を行い、既に世を去っていた師の兀菴普寧を開山としたことから、三人の名が連ねられている。

 6月にはアジサイの花が彩る。

・仏殿 本尊の三世仏(サンゼブツ)を安置する曇華殿(ドンゲデン・仏殿)がある。仏殿は「曇華殿」と呼ばれている。

  曇華殿前の3本の「ビャクシン」は、市の天然記念物。

・室町時代の三体の仏像 弥勒菩薩の木造三世仏坐像は室町時代に作られたもので、県の重要文化財

 

鎌倉観音巡礼(第31番札所(聖観世音))

鎌倉・江の島七福神(布袋尊)

鎌倉地蔵巡礼(第12番札所(聖比丘地蔵))

鎌倉十三仏(第6番札所(弥勒菩薩))

 

開山も開基も複雑な寺であるが、開山は兀菴普寧(ごったんふねい)、請待(しょうたい)開山が大休正念(だいきゅうしょうねん)、準開山が南洲宏海(なんしゅうこうかい)ということのようである。

 兀菴(ごったん)→よく揉め事を起こし、「ゴタゴタ」の語源となった和尚。

鎌倉五山-建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺. 五山制度は印度の五精舎にならい、中国南宗末期に禅宗の保護と統制のため格式高い五つの寺を定めたことに由来する。

 

花頭窓(かとうまど)→窓の形状による名称のひとつで、上部が尖頭アーチ状の窓のことです。 花頭窓は、華頭、火頭、花灯、華灯、火灯、瓦灯、架灯などとも書かれます。 花頭窓は、禅宗寺院の建築とともに中国から伝わり、唐様(からよう)建築に多く用いられ、茶席では広間の床脇書院の窓に多く用いられています。

 

柏槙(ビャクシン)→ 鎌倉のお寺を歩いているとときどきビャクシンの木を見かけます。ビャクシンはいろいろな種類があるようですがお寺に植わっているのはイブキと呼ばれる幹が太い高木です。 ビャクシンは建長寺が有名ですが、どこのお寺にあるのか調べてみました。鎌倉市のページを見ると、建長寺、円覚寺、浄智寺、寿福寺、大慶寺、成福寺、浄光明寺、そして鶴岡八幡宮のビャクシンが天然記念物として指定されています。

海に近い鎌倉の水は塩分の影響を受けておいしくなかったと言われます。数少ないおいしい水を十井や五名水と言われます。

鎌倉十井(カマクラジッセイ)の一つ

甘露ノ井(かんろのい)→浄智寺山門の手前

不老不死の効能がある水だったといわれています。

 

鎌倉十井→江戸時代の新編鎌倉市で選定された。

水の悪かった鎌倉の井戸の中で,最も美味しく、また伝説やいわれのある十の井戸のことをいいます。鎌倉が観光地化した江戸時代に定められたようです。現在水の飲める井戸はありません。

 

①泉ノ井(いずみのい)

場所:浄光明寺の門前を100m程先に行った所

この付近は、この井戸の名をとって泉ヶ谷(いずみがやつ)と呼んでいます。

②扇ノ井(おうぎのい)

場所:扇ヶ谷の個人宅内。非公開

扇を開いたような形をしていることからこの名が付いたとされています。また、源義経の愛妾、静御前が舞扇を納めたからとも言われます。

③瓶ノ井(つるべのい)

場所:明月院境内

別名甕ノ井(かめのい)。内部に水瓶のようなふくらみがあることからよばれたといわれています。

④甘露ノ井(かんろのい)

場所:浄智寺山門の手前

不老不死の効能がある水だったといわれています。

⑤鉄ノ井(くろがねのい)

場所:鶴岡八幡宮南西の角、小町通りと県道21号の交差点角

正嘉二(1258)年、秋田城介・安達泰盛の住む長谷のあたりから起こった火事は、扇ガ谷の寿福寺や新清水寺、鶴岡八幡宮の若宮などを焼きました。その時新清水寺の鉄の観音像が土の中に埋まってしまいました。その鉄の観音像(首から上の頭部)がこの井戸から掘り出されたためこの名前がつきました。その観音像は現在、東京人形町の大観音寺の本尊となっています。

⑥底脱ノ井(そこぬけのい)

場所:海蔵寺山門の手前

上杉氏の娘が尼として修行していた頃、夕飯の支度に桶に水を汲んだところ、桶の底が抜け落ちてしまいました。その時に心の中のもやもやが解け悟りが開けたとされています。また一説には、鎌倉時代中頃の武将安達泰盛の娘千代能の話とされているともいわれています。

⑦銚子ノ井(ちょうしのい)

場所:長勝寺斜向かい 鎌倉駅から京急バス名越方面行き 「長勝寺」バス停下車逗子方面へ約50m 民家の先

井戸の全体の形が石で作られており、その形が銚子(酒を入れてさかずきにそそぐ、長い柄のついた道具)に似ていることから名づけられたようです。井戸の内側は円ですが、外側は六角形でその一辺はつぎ口のように突き出しています。石でできた蓋があり、六枚の花びらのような形をしています。長勝寺の石井長勝氏作ったとか、山号である石井山(せきせいざん)に因んで石で作ったとか説もあり、別名、石ノ井(いしのい)とも言います。

⑧星月ノ井(ほしづきのい)

場所:虚空蔵堂に上がる階段手前、坂ノ下18-28付近

このあたりは昼でも暗いところであったとのこと。しかし、この井戸をのぞくと、昼間でも星が輝いて見えたことからこの名前がついたとされ、別名星ノ井(ほしのい)、星月夜ノ井(ほしづきよのい)とも言います。また、近所の女の人が誤って包丁を落としてしまったところ、星が輝かなくなったとも伝えられています。

⑨棟立ノ井(むねたてのい)

場所:覚園寺境内。非公開。

井戸の形が家の棟形をしていることからこう呼ばれています。また、別名の破風ノ井(はふのい)も井戸の形からきています。

⑩六角ノ井(ろっかくのい)場所:材木座6-23-7付近

井戸の形は八角形で、六角が鎌倉分、二角が逗子分であったところからこの名が付いたとされます。保元の乱で敗れ伊豆大島に流されていた源為朝が、光明寺裏の天照山めがけて矢を射たところこの井戸に落ち、矢じりが残ったとされる言い伝えから、別名、矢ノ根井(やのねい)とも言います。

 

鎌倉五名水(かまくらごめいすい)または鎌倉五水(かまくらごすい)は、江戸時代編纂の『新編鎌倉志』で良質水に選定された神奈川県鎌倉市内の5ヶ所の湧水である。

 

①梶原太刀洗水(かじわらたちあらいみず)

朝比奈切通しにある湧水。梶原景時が上総広常を謀殺した後、その太刀を洗い清めた水だと伝わる。

 

②金龍水(きんりゅうすい)

建長寺門前にあったが、道路拡張工事の際に埋められ、現存しない。

 

③銭洗水(ぜにあらいみず)

銭洗弁財天宇賀福神社の湧水。源頼朝が霊夢に従い見つけたと伝わり、この水で銭貨を洗うと何倍にもなって返ってくるといわれる。

 

④日蓮乞水(にちれんこいみず)

名越切通しにある湧水。日蓮が杖を突き刺したら湧き出たと伝えられる。

 

⑤不老水(ふろうすい)

建長寺境内にあったとされるが、現存しない。

 

 

①浄智寺(布袋和尚)-中国唐末期の僧がモデル→ 弥勒の化身

布袋さんといえば、その名の通り大きな袋がトレードマークですが、浄智寺の布袋さんは袋を持っていません。

 

大変ユーモラスな表情。お腹をさするとご利益があるとされ、参拝者が皆触っていくので、お腹が黒くなっています。

五代十国(ゴダイジッコク)の一つ後梁(コウリョウ)王朝(907~923年)の頃の中国に実在した禅僧。大きな袋を持って喜捨(キシャ)を集めて歩いたためこの名がつきました。

喜捨→寺社に寄進し貧しい人に施しをする

 

本来は五福神でもよいはずなのですが、仏教経典「仁王般若波羅密経」にある「七難即滅七福即生」(仏の教えを守っていれば、太陽・星の異変、火災、

水害、風害、旱害、盗難の七つの大難は消滅し、七つの福がえられるという教え)にちなんで寿老人と福禄寿を加えて七福神としたといわれています。

しかし、寿老人と福禄寿は、ともに南極星の化身で同体異名の神だといわれています。七福神とするために最後に無理に入れられたので、少々おかしなことになってしまったのかもしれないですね

南極星→中国古代の天文説で人の寿命を司るとされた星。

 

「堪忍袋(かんにんぶくろ)」という大きな袋を背負っているのが特徴で、「堪忍袋の緒が切れる」ということわざは、布袋和尚に由来するもの。

 

布袋は中国の唐末期(9-10世紀)7福神の中で只一人実在した人物です

浙江省にある資聖寺に住んでいたと言われる、禅僧契此(かいし)がモデルとされる。

この僧は太鼓腹で、いつも全ての生活用具の入った大きな布袋を持ち、貧しい人々に与えたと言う。そこから布袋の呼び名が付いたと言う。

 

 彼は天候を予測し吉凶を占ったと言う。中国では発財神(ハツザイシン)として信仰された金儲けの神です。

 布袋は水墨画の画題として唐子(カラコ)とともに描かれ、その絵が安産の祈願やお守り使われた。これは布袋の大きな腹と、唐子を妊婦と子供に例えたものとされる。


 2、鶴岡八幡宮

現在の祭神は以下の3柱。「八幡神」と総称される。

①応神天皇 (おうじんてんのう) - 第15代天皇

②比売神 (ひめがみ)

③神功皇后 (じんぐうこうごう) - 第14代仲哀天皇の

妃(キサキ)、応神天皇の母

 

比売神(ひめがみ)→神道の女神である。 神社の祭神を示すとき

に、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神、姫大神などと書

かれる。 これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、

あるいは関係の深い女神を指すものである。 ... 大日孁貴尊(アマ

テラス)を比売神としている神社もある。

古都・鎌倉の中心部に位置する鶴岡八幡宮。その歴史は康平6年(1063年)、源頼義が源氏の守り神として由比郷鶴岡(現在の材木座)に京都の石清水八幡宮を勧請したことから始まります。

 

後に源頼朝が現在の地へ遷し、鶴岡若宮と称したのが現在の鶴岡八幡宮。鎌倉幕府から篤く信仰された鶴岡八幡宮は、広く武門の神、勝利の神として崇敬を集めることとなったのです。

鶴岡八幡宮は全部で8つの摂社・末社を持ち、そのうち7つが境内にあります(唯一の境外社が由比若宮)。お時間のある方は境内社も巡ってみましょう。

こちらは、境内にある末社の白旗神社。源頼朝公と実朝公をお祀りしており、源氏の家紋である笹竜胆が配されています。

 

*「本宮」

『鶴岡八幡宮』の「本宮」は、江戸幕府11代将軍徳川家斉(イエナリ)の造営による代表的な江戸建築で、 若宮とともに国の重要文化財に指定されています。

本宮楼門にある「八幡宮」と書かれた額は、「八」の字が神聖な神の使いとされる鳩になっているのが特徴です。

『鶴岡八幡宮』は1911年、鎌倉の大火で焼失してしまいますが、源頼朝によって「本宮」「若宮」とも再建されました。

さらに、1923年(大正12年)の関東大震災で倒潰しましたが、修造されました。

 

*「舞殿」

仁大門を入ると広場があり、そこに「舞殿」が設置されています。

1193年に造られた、唐破風の入り母屋造りの建物です。

源義経の側室で舞の名手であった静御前が、頼朝の命令で舞を舞った場所とされています。

この時、重忠が銅拍子を打ったと言われている。

 

舞殿では様々な行事が行われます。

1月『手斧始式(ちょうなはじめしき)』(鎌倉の建築関係  

者の仕事始として、大切な神事)、

4月『静の舞』(源義経を慕い舞を披露した静を偲ぶ祭り)、5月『菖蒲祭』、7月『七夕祭』、

6月と大晦日には『大祓(おおはらえ)』(万民の罪穢を祓う神事)が行われ、多くの参拝客が訪れます。

 

*「源平池」

八幡宮の境内にある「源平池」は1182年、頼朝の命によって造営されました。

正面にかけられた「太鼓橋」をはさんで、右が「源氏池」、左が「平氏池」となっています。

源氏池には三つの島が、平家池には四つの島があり、源氏の発展を願う「産」と平家の滅亡を願う「死」をかけたものであったと言われています。

池には水鳥が住み、池の周りには藤、牡丹、ツツジなどが植えられ、四季折々の風景を見せてくれます。

 

*「段葛)」

鎌倉駅の東口から『鶴岡八幡宮』へ続く参道の真ん中にあるのが「段葛」です。

参道も「段葛」も、源頼朝の妻である北条政子の安産祈願のためにつくられたといわれています。

「段葛」は『鶴岡八幡宮』に近づくほど道幅が狭くなっており、これは遠近法で神社の権威を象徴するためと、敵の侵入時の防衛のために、このような工夫が施されたと考えられています。

大正7年(1918)頃から桜の木が植えられ、現在桜の名所としても知られています。

 

*「隠れ銀杏」

『鶴岡八幡宮』の「本殿」へと続く石段を上がったところにある銀杏は、樹齢千年を超える巨木で、八幡宮のシンボルとして長い間大切にされてきました。

1186年、鎌倉幕府の3代将軍・源実朝を暗殺した公暁が隠れたという伝説から、「隠れ銀杏」と呼ばれ親しまれています。

こちらの銀杏は2010年に強風で倒れてしまいましたが、現在は新しく伸びてきた若芽である「ヒコバエ」を育成し、隠れ銀杏の再生計画が進められています。

新芽がでてきたことで、再生のパワーがあるとして人気のパワースポットとなっています。

 

 

②鶴岡八幡宮(弁財天)-インドから来た女神

鶴岡八幡宮には源氏池と平家池という2つの池がありまして、あわせて源平池といいます。目指す「旗上弁財天」は、源平池のうちの源氏池に浮かぶ島の上に祀られています。

鎌倉国宝館(鶴岡八幡宮境内)に寄託中の木造弁才天座像は、文永3(1266)年に八幡宮の楽人であった中原光氏が奉納したといわれる像で、裸体に本物の衣服が着せられています。

 

もとは、インドのサラスバティという河の神様。美しい河の流れの音から発展し、音楽の神として信仰されました。日本では、古くは「弁才天」と書かれましたが、次第に「弁財天」と書かれるようになり、財産の神としての性格が加わりました。

さらに、その後、毘沙門天と、布袋和尚が加わり、五福神となりました。

 

目指す七福神の弁財天は、境内の源氏池に浮かぶ島のひとつに、「旗上(はたあげ)弁財天」として、まつられています。

弁財天(弁天さま)は、七福神の中で、唯一の女性の神様。もとは、インドのサラスバティという河の神様で、美しい河の流れの音から発展し、音楽の神として信仰された歴史があります。

なお、鶴岡八幡宮には、鎌倉時代につくられた木造の「弁才天坐像」が伝わり、現在は、鶴岡八幡宮境内の「鎌倉国宝館」に寄託されています。

 弁才天(インドから来た女神)。 弁才天は琵琶を引く姿の女神ですがルーツは、インドの女神サラスヴァーティー(聖なる川)である。

 この名前はインドの大河の名前で大河の偉大さを神格化したものらしい。そこから豊穣の女神となり、川の流れる音が音楽に例えられ音楽の女神ともなった。

 さらに言葉の女神ヴァーチュと同一視され、弁舌、学問の神となった

もともと弁才天は八本の腕を持っ女神でしたが室町時代に七福神の定着と共に琵琶を弾く妖艶な姿に替わっていった。

 巳の日に参拝すると財産を得るとされ弁財天と変化した。

 

日本でも、海辺や湖、川などに関係ある場所に祀られる事が多く、近くに海や湖が無い場合も、境内の池のほとりに祀られています。

 又、才の字を財に変えて弁財天とし祀る寺もあるが、この場合は五穀豊穣、福徳を授けてくれる神として広く信仰されています。

弁才天は七福神の中で唯一の女神ですが、古くは七福神の紅一点は吉祥天でした。吉祥天も弁才天も大変美しい艶やかなインドの女神で、日本に伝わったのは奈良時代。その後、成立した七福神には、当時人気があった吉祥天が取り入れられ、後、庶民の間で人気となった、弁才天と入れ替わった。

弁才天像は大きく分けて8臂像→(弓矢や刀などの武器を持つ)と2臂像→(琵琶を持つ)がある。

 

弁才天は日本に伝来後一杵嶋姫尊(イチキシマヒメノミコト)と言う神と同一視され寺にも神社にも祀られています。→宗像神社、厳島神社、

 

日本では蛇が弁才天の化身とされており、弁才天像の近くで宇賀神と呼ばれる蛇神の像をよく見かける。

とぐろを巻いた蛇の上に人間の老人や女性の頭が乗っている不思議な形だ→琵琶湖に浮かぶ竹生島(チクブジマ)

銭洗い弁天→宇賀福神社→非公開

 

江の島神社→宗像三女神系で8臂弁才天と2臂の裸弁才天が祀られています。この像を妙音弁才天と言い、宮島、竹生島の宝厳寺の弁才天が日本三大弁才天です。これは、銭洗い弁天と呼ばれ弁才天の水神の性格と蓄財の性格がうまく結び付いた。


3.宝戒寺

神奈川県鎌倉市小町にある天台宗の寺院。山号は金龍山。詳名を金龍山釈満院 円頓宝戒寺と称し、本尊は地蔵菩薩。萩の名所として知られ、「萩の寺」とも呼ばれる。

 宝戒寺(天台宗)が建てられている地は、代々の執権館があった場所で、北条義時以来の執権が住まいしたものと考えられている。

 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇が足利尊氏に命じ、北条一族の霊を弔うために宝戒寺を建立させ、勅命により円観慧鎮を開山とした(1335年(建武2年)創建)。

 国宝的人材を育成、修行させるための円頓大戒(金剛宝戒)と天台密教の道場としての「戒壇院」が置かれた。

 廃寺となった東勝寺をこの場所に移したともいわれるが詳しいことは不明。

 秋には、200株ともいわれる「シロハギ」が見事で「萩の寺」と呼ばれている。

1333年(元弘3)新田義貞の鎌倉攻めにより、北条氏は滅んでしまいました。その後、1335年(建武2)に北条高時の霊をなぐさめるため、後醍醐天皇が足利尊氏(あしかがたかうじ)に命じ北条執権邸跡に建立しました。

 

本尊は地蔵菩薩像(国重文)で、子育経読地蔵(こそだてきょうよみじぞう)という名で親しまれています。秋の彼岸の頃には、境内に咲く白萩で有名です。

木造地蔵菩 坐像(国重文)

[春]ハクモクレン、[夏]サルスベリ、[秋]ヒガンバナ・ハギ・ホトトギス、[冬]ウメ・ツバキ

太子講(1月25日)

鎌倉観音巡礼第2番札所 (准胝観音)

鎌倉・江の島七福神 (毘沙門天)

鎌倉地蔵巡礼第1番札所 (子育経蔵)

開山      円観慧鎮(エンカンエチン)

開基      後醍醐天皇

本尊      子育経読地蔵大菩薩(唐仏地蔵)

 

③..宝戒寺(毘沙門天)-インドがルーツ・北の守護神

東→持国天、 南→増長天、 西→広目天。

やはりインド出身の神様で、仏教では、須弥山(しゅみせん)の周りを守る四天王の一人になります。軍神として有名ですが、別名の「多聞天」からも想像がつくように知恵の神でもあります。

 毘沙門天(びしゃもんてん)=病魔対敵の神

別名を多聞天といい、仏教を守る四天王の一人です。須弥山(しゅみせん=仏教の世界観で、世界の中心)の北方の守護神にあてられており、その武威の盛んなことから災難や病患を除いて福智や富貴を授けるものとして信仰されるようになりました。

 毘沙門天(多聞天)のルーツもインドで、毘沙門天は単独で祀られる際の呼び名で、四天王の中の一員として祀られる場合は多聞天として祀られる。

北→多聞天→全ての事を聞き漏らさない。 東→持国天  西→広目天  南→増長天  毘沙門天の妻は吉祥天です。

 

法隆寺では夫婦一対で祀られています。鞍馬寺に飾られる理由は京の都の北に当たるからである。

インドの四方を守る神が仏教に取り入れられ四天王と呼ばれるようになった。鎧を着た武将の姿から想像できるように戦闘の神として、楠木正成や上杉謙信も信仰した。

 

四方の守護神や戦闘の神が福神になった理由は不明だが、財宝神として人々に現世利益を施す神で、室町時代には福神といわれた。

天部の神々の最古参です。武将から庶民まで、絶大な人気を誇った毘沙門天です。全国各地の寺で見ることができます。


4.妙降寺(ミョウリュウジ)

由来

妙隆寺は日蓮宗総寺院。一帯は鎌倉幕府の有力御家人だった千葉常胤(ツネタネ)の子孫・胤貞の別邸跡と伝えられ、一般には「千葉屋敷」とも呼ばれている。

妙隆寺は胤貞が祖先追福のため、至徳二年(1385)、七堂伽藍を建立して妙隆寺を創建し、中山法華経寺の日英上人を開山に迎えたと伝えられる。妙隆寺は中山門流の中心となった。本尊は日蓮上人。

創建は1385年、本堂前の池は日親上人が100日間の水行の後に、剥いだ爪から流れた血で曼荼羅を描いた「血の池」と伝えられます。

 

④妙隆寺(ミョウリュウジ)→寿老人→中国道教出身→南極星の化身

妙隆寺は、「なべかむり日親」さんのお寺。

日親上人は厳しい修行を積み京に上り、かつて、日蓮宗宗祖の日蓮が「立正安国論」を鎌倉幕府の執権・北条時頼に建白したことにならい、時の室町将軍・足利義教(よしのり)に、政道を正すべく「立正治国論」を建白しました。

 

しかし、これが将軍の怒りを買い、真っ赤に焼けた鍋を頭にかぶせられる拷問を受けましたが、それでも考えを曲げなかったという壮絶な話が伝わっています。

 

白い髭を蓄え、経典の付いた杖を持ち、鹿を伴う姿でかかれることが多い。中国の道教に起源を持つ、人々の安全と健康・長寿の神様。

こちらの寿老人は欅の一本造りです。また、本堂の左手前にはもう一体の寿老人(石造り)がいます。

寿老人(じゅろうじん)=長寿の神

中国の道教の神仙思想から来た伝承で、長寿を司る神様といわれています。また、「老子」であるという説や、宋の時代の仙人「寿星」の化身でありという説もあります。

寿老人→中国に古くから伝わる民間宗教である道教出身です。

モデルは中国宋時代の人だと言われ南極星の化身として神格化されています。南極星は実際存在しないが道教では、北極星に対応する南極星あると考えられていました。

南極星は寿星ともいい不老不死の仙術(仙人の術)を納めたのが寿老人です。

背丈は3尺→91cmで南極老人とも言います。


5.本覚寺

神奈川県鎌倉市にある日蓮宗の本山(由緒寺院)。山号は妙厳山。本尊は釈迦三尊像。身延山の久遠寺にあった日蓮の遺骨を分骨したため「東身延」とも呼ばれる。

 

由来

本覚寺は、日蓮宗の寺院です。日出上人(ニッシュツ)を開山として永亨八年(1436)に創建されました。

足利持氏が鎌倉の夷堂があった場所に寺を建てて日出上人に寄進した寺院です。

文永11年(1274)に佐渡流罪を解かれ鎌倉に戻った日蓮上人は、この夷堂に滞在して布教を再開しました。その後、甲斐国の身延山に入って久遠寺を建立し本格的に日蓮宗の布教を行いました。

本覚寺分骨堂には、身延山から分骨した日蓮上人の分骨が納められています。本尊は釈迦三尊。

9月には樹齢100年以上のサルスベリが咲きます

 

 

*名刀正宗の墓

正宗(まさむね、生没年不詳)は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に鎌倉で活動した刀工。日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人。多くの弟子を育成した。正宗の人物およびその作った刀についてはさまざまな逸話や伝説が残され、講談などでも取り上げられている。「正宗」の名は日本刀の代名詞ともなっており、その作風は後世の刀工に多大な影響を与えた。

 

*夷堂

この夷堂は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てたとされ、天台宗系のものであった。文永11年(1274年)に佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた

 

*日蓮上人分骨堂

本堂右側にある分骨堂には、日蓮上人の墓がある身延山から分骨された遺骨が安置されている。

 

⑤本覚寺→恵比寿→日本産の神

現在、本覚寺のある場所は、幕府の裏鬼門(南西)に当たる為、源頼朝が夷堂(えびすどう)を建てた場所。室町時代の永享3(1436)年に、夷堂の地に日蓮宗の僧・日出(にっしゅつ)が本覚寺を建立すると、夷さまは本覚寺境内にまつられました。

その後、明治初年に神仏分離令が出されると、夷さまはお寺を出て、近くに蛭子神社(ひるこじんじゃ)としてまつられますが、本覚寺のほうでも、昭和56年に境内に夷堂を再建しました。「蛭子」は「えびす」とも読みますね。

 出自は、父イザナギノミコトと母イザナミノミコトの子で七福神の中で唯一日本発祥の神様。古くは、「夷(えびす)」と書かれました。

 恵比須様の持つ釣り竿には「釣りして網せず」の精神が反映されており、暴利を貪らない清廉なお心に商売繁盛の神様としての人気が集まりました。農村では田の神、漁村では大漁の神様として親しまれています。

 

本覚寺で、正月三が日に行われる「初えびす」と、10日に行われる「本えびす」は、正月の鎌倉のおすすめの行事。境内に特設されたお宝売り場で、美しく着飾った福娘たちによって縁起物が販売されます。

 

ちなみに、本覚寺の「夷堂(えびすどう)」には、武人のようなスタイルの「夷神」の像がまつられています。現在、我々が一般的に思い浮かべる「恵比寿様」といえば、鯛(たい)と釣竿を持つ姿の商業の神ですが、それとは全く異なるお姿に興味をひかれます。

 

恵比須→純粋の日本産の神

イザナギ、イザナミの第一子である蛭子。

恵比寿は烏帽子の公家スタイルで釣竿を持ち鯛を抱える福福しい姿の福神で大漁をもたらす神として信仰された。

恵比寿の誕生→西宮神社の伝説では

西宮神社→正月の神事開門の神事福男選び

摂津の国(大阪府)西の宮に海から福の神が流れ着き、人々は蛭子を夷三郎と呼び大事に育てた。

後に、蛭子は神話の世界から、飛び出して、七福神の一つである恵比須神へとイメージチェンジするのです。

島国の日本では、古来より幸福をもたらす神々は海の彼方から浜辺にやって来たのです。そういう神を来訪神と言います。

 人々は海上からやって来る神をヱビスと呼び、来訪神を豊かさと幸福をもたらす尊い神として奉りました。

 それから商業の発展と共に陸に上がり、商業神としての性格ももつようになる中で農業神としての顔も持つようになる。

 西宮神社(兵庫県)の祭神夷三郎と大国主神が大黒天と同一視され、恵比寿:大黒として祭られるようになった。

 

恵比須講→1月10日と10月20日の年に二回行う。

主人は、鯛、神酒、鏡餅、柿、栗などを供えた像や掛軸の前で、鯛を乗せた三方(サンボウ)を掲げて、それに千両とか万両の値をつけて、商売の真似事をして、商売を学んだ。→無礼講はここからとも言われている。

 

10月20日の恵比須講は誓文祓いともいい、普段の商売で駆け引き上、時に顧客に嘘を言う事があるが、罪滅ぼしに、前後数日間、大安売りをすることで、神罰を免れる習慣であった。

日子→蛭子

日女→ヒルメ


6.御霊神社

 目の前を江ノ電が走る御霊神社(ごりょうじんじゃ)は、平安時代に大庭御厨を開発した鎌倉権五郎景政を祀る。

 創建年は不明(平安時代後期と推定)。別名「権五郎神社」。

鎌倉には、大庭・梶原・長尾・村岡・鎌倉という平氏一族の五家があって、その祖先をまつる「五霊神社」が建てられた。

 しかし、鎌倉権五郎景政が武勇の誉れが高いことや、景政が領していた地であったことなどから、いつしか景政一人を祀る神社となったのだという。

 景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれている。

後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政をまつり、地元では「権五郎さま」と呼び親しまれている神社。毎年9月18日に行われる面掛行列が有名で、その際に十人衆がつける仮面が境内の宝物庫に保管されている。

 

⑥御霊神社(福禄寿)-中国道教出身→南極星の化身

御霊神社のご祭神は、源(八幡太郎)義家に従って、奥州の後三年の役に16歳で出陣した、鎌倉権五郎景政(ごんごろうかげまさ)公です。景政公は、敵に右眼を射抜かれながらも勇猛に戦ったという武勇伝が残る武将で、鎌倉武士の誇りとされました。

 この景政公の命日とされる9月18日には、「おかめ」の面を付けた妊婦を中心に、異形の面をつけた人々が町を練り歩く祭り「面掛け行列」が行われます。この祭りで使う福禄寿の面が、七福神の福禄寿です。鎌倉の秋の風物詩になっています。

ふだんは、本殿右手の宝物庫に安置されており、社務所に申し出れば拝観させていただけます。

 

福禄寿:寿老人→中国道教出身

二神とも南極星(実際には無い)の化身とされ、もともとは中国の道教思想にルーツがある。二神は共に長寿の福神です。

福→幸福

禄→立身出世 禄高(ロクダカ)の語があるように給料のこと(中国の役人の姿)

寿→長寿

福禄寿とは立身出世して給料を沢山貰い幸福に長生きをすると言う希望を叶える神です。

 二神は仏教の禅宗の伝来と共に水墨画の画題として日本に輸入された

福禄寿は背が低く、長い頭に長い髭、巻物を結んだ杖を持つ。寿老人も背が低く身の丈三尺と言われ、両者のプロフィールが似ているため同一視されたこともある。その時は吉祥天か猩々(ショウジョウ)が入る。

日本には南極星に対する信仰は希薄なため、二神は七福神以外には信仰の対象にならなかった。

 

 

 

 


7.長谷寺

長谷寺伝世で応永(おうえい)19年(1412)の銘を持つ大黒天立像が、昨年(2017)2月に鎌倉市の文化財指定を受けた。

 

鎌倉の西方極楽浄土と謳われ、1年を通じ「花の寺」として親しまれる長谷寺。本尊の十一面観音菩薩は、高さ9.18mを誇る日本最大級の木彫仏。また、坂東観音霊場の第四番札所として、往古より衆生の崇敬を集める古刹でもある。

 

 重要文化財

梵鐘 文永元年(1264年)銘の十一面観音懸仏 6面

 

当山は、観音山の裾野に広がる下境内と、その中腹に切り開かれた上境内の二つに境内地が分かれており、入山口でもある下境内は、妙智池と放生池の2つの池が配され、その周囲を散策できる回遊式庭園となっております。

 また、その周辺にとどまらず、境内全域は四季折々の花木に彩られ、通年花の絶えることのないその様相は、「鎌倉の西方極楽浄土」と呼ぶに相応しい風情を呈しております。

 

上の境内には、本尊である十一面観音菩薩像(長谷観音)が安置される観音堂をはじめ、主要な諸堂宇が建ち並ぶほか、鎌倉の海と街並みが一望できる「見晴台」と、傾斜地を利用した「眺望散策路」があり、鎌倉でも有数の景勝地となっております。

また、眺望散策路の周辺には40種類以上約2500株のアジサイが群生しており、梅雨の季節には眺望はもとより「アジサイの径(こみち)」として散策も楽しんでいただけます

 

⑦長谷寺(大黒天)-インドと日本(大国主尊)

起源は、インドの破壊の神マハーカーラー。ヒンズー教の最高神シバ神の夜の姿ともいわれます。

これが仏教に入ると何故か厨房の神となり、台所に大黒天をまつっておけば食べることに困らないと信仰されるようになります。裕福・財宝の神でもあります。また、大きな袋を背負って全国を回ったという伝説が残る大国主命(おおくにぬしのみこと)と「大黒」「大国」で文字が似ているため混同され、袋を担いだお姿になったといわれます。

 

恵比寿、大黒のペアに次に加わったのが、天細女命(あめのうずめのみこと)という女性の神様です。この女神は、天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき、岩屋戸の前で舞を舞った神として知られます。

 しかし、京都では同じく女性神である弁財天のほうが人気があったために、天細女命に代わって弁財天が七福神の紅一点の座に座ったといわれます。

 

大黒天→インドの神

大黒天ほど元の神と似ても似つかぬ性質に変化した神も珍しい。ルーツはインドの神でマハーカーラ。

大きな黒から大黒天と呼ばれるが、ルーツであるマハーカーラは破壊の神であるシヴァの別名で、暗黒の中に住む死を司る神であり、大黒の黒は暗黒を意味する。日本の大黒天は、それとは正反対の福の神。米俵の上に立って、大きな袋と打出の小槌を持ち、皆を幸せにしますとニコニコ笑っています。

 

長谷寺には複数の大黒様がいらっしゃいます。歴史が古いのは、長谷寺境内に2015年10月にオープンした「観音ミュージアム」に収蔵されている大黒天像で、室町時代の応永19(1421)年の作と伝わります。この像は普段は非公開で、特別展のときなどに公開されます。

現在、七福神めぐりで参拝するのは、大黒堂にまつられている「出世大黒天」です。また、同じお堂にまつられているカラフルな彩色の「さわり大黒」が人気の様子。このように変化した経緯は、日本神話における大国主尊と同一視されたためと言われます。

 

インドでの寺院では、台所の神としても祀られ、天台宗を開いた最澄は台所の神として日本に紹介した。


⑧江島神社(弁財天)→インドから来た女神 今回は散策しません

土御門天皇 建永元年(1206年)、時の将軍・源實朝 が創建。延寶三年(1675年)に再建された後、昭和五十一年(1976年)の大改修により、権現造りの現在の社殿が新築され、屋根には江島神社の社紋「向かい波三つ鱗」が見られます。

 

この三女神を江島大神と称しています。古くは

江島明神(エノシマミョウジン)と呼ばれていましたが、仏教との習合によって、弁財天女とされ、江島弁財天として信仰されるに至り、 海の神、水の神の他に、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として、今日まで仰がれています。

 

江ノ島にまつられている江島神社(えのしまじんじゃ)は、辺津宮(へつのみや)、中津宮(なかつのみや)、奥津宮(おくつのみや)という三社から成っていますが、目指す弁天様がまつられているのは、辺津宮の境内。

辺津宮は、田寸津比賣命(タギツヒメノミコト)をお祀りしています。

高低差のある江の島(神域内)では、一番下に位置していることから『下之宮』とも呼ばれ、 島の玄関口にもあたり、神社でのご祈祷は、こちらで主にご奉仕されます。

江戸時代には、この江島弁財天への信仰が集まり、江の島詣の人々で大変な賑わいを見せました。 

「奉安殿」という六角のお堂の中に、源頼朝が寄進した八本の手を持つ「八臂(はっぴ)弁財天」と、「裸弁天」として知られる「妙音弁財天」が並んで安置されています。

妙音弁財天は、その名のとおり、音楽・芸能にご利益があるとされ、近江の竹生島、安芸の宮島と並び、「日本三大弁財天」の一つに数えられています。


⑨その他の福神

☆吉祥天→インドから来た女神→母は鬼子母神

福徳の女神で七福神の一つにかぞえられた時期もあった。

 吉祥天の信仰は、七世紀頃伝来し、女神として弁才天より先に人気を集めていた。

 弁才天と同じく富、幸運、豊穣の女神です。

胸に掛けている珱珞(ヨウラク)と呼ばれる飾りはインド製の装飾品です。

右手は施願印であなたの願いを叶えましょう。左手の如意宝珠は意のままになる珠のことです。

 仏教では毘沙門天の妃とされ同一視され混同されることもあったが、最終的には、弁才天に七福神の地位を譲ることになった。

 

☆猩猩(セイセイ)(ショウジョウ)→が七福神の一つになることも(中国の想像上の怪獣)

 

☆伎芸天→大自在天の子と言われる。しかし、大自在天は男の神。

日本には伎芸天像は少ないが奈良の秋篠寺の立像が有名。

 伎芸とは歌を歌い、舞を踊り、楽器を奏でる音楽のことです。これら芸能を上達させ、福徳を与えてくれるのが伎芸天です。

 秋篠寺の立像が伎芸天と判明したのは明治になってからでした。それだけ像の特徴がわからないまま伝えられてきたのです。

 

☆鬼子母神

天上界の美人3人に鬼子母神を加えて天上界の女四天王とならないのは美しい像と鬼のような顔をした像の2種類あるからです。

 鬼子母神はインド名をハーリィティーと言いそのまま音写して訶利底母(カリテイモ)と言われた。

伝説→昔、インドの王舎城に牛飼いの女性がいました。

 ある人の説教会の後、女性は妊娠していることを忘れて踊ったため流産してしまいますしかし、誰一人として彼女を助けなかったため、(来世、この王舎城に生まれ、全ての子供を食べてやる)と遺恨を残してしまいます。

 次の世彼女は王舎城のサタ夜叉(鬼神)の長女として生まれ、ハンシャラ夜叉の長男ハンシカ夜叉と結婚500人の子供を産みます。

 しかし、前世の恨みの通り、日夜城中に出て子供を食べていました。

この事を聞いたお釈迦様は、神通力で、彼女の末っ子ヒンガラを隠してしまいます。半狂乱のなったハーリィティーは7日7晩探し歩き、とうとうお釈迦様はの所に相談にいきます。

 500人も居るのだから一人位いいではないかと釈迦は言いますがハーリィティーは可愛い子供に代わりはないと涙ながらに訴えます。

 500人も居て悲しいのなら、お前が食べた子供たちの親の悲しみは計り知れないとハーリィティーを諭します。

 改心した彼女は親のない子供達や安産の全力を尽くします。以後、鬼子母神は子育てと安産の守護神として信仰されています。

 

☆宝船

七福神が遠く離れた異国やって来た来訪神との考えから宝船の発想。

宝船には七福神の他に様々な宝が積まれたものもある。

稲、米俵、千両箱、珊瑚、隠れ笠、簑、打出の小槌、松竹梅、鶴亀

縁起にあやかって、幸運を得ようとする人々の思いが表現されている。

 

☆だるま【達磨】

中国禅宗の始祖達磨が嵩山(すうざん)少林寺にあって,壁に向かって9年間座して悟りをひらいたという,いわゆる〈面壁九年〉の故事にちなみ,その座禅姿をうつした人形。赤い衣姿で手足がなく,底を重くして倒れてもすぐ起き上がるようにしくんだ起上り玩具の一種。起上り玩具としては,室町時代に〈起上り小法師〉と称するものが流行したが,江戸時代中期から達磨が起上り玩具を代表するようになり,倒れてもすぐ起き上がるというところから〈七転八起〉のたとえ言葉とともに縁起物として全国に流布した。

 

七福神巡り

 七福神巡りは江戸時代後期に成立した。これは平安時代末期に起こった観音霊場の巡拝と同様、出来るだけ多くのご利益を得たいと言う庶民の願いです。

徳川家康が七福神信仰を勧めた。

京都七福神巡りが寛政年間1790頃

谷中七福神巡りが享和年間1800頃

隅田川七福神巡り

山手七福神巡り

江戸時代になると正月の七日までに巡拝し一年間の福を授かろうと言う習慣に変わっていった。

枕の下に(七福神の乗った寳船)の絵を入れておくと良い初夢が見られると言う縁起物の神々になりました。