4B 八王子往還・尾根道緑道を歩く  約7.7km

コース内容

西谷駅→猪子山→帷子川分水路→白根村道橋改修碑→馬頭観音→鶴ヶ峰坂→白根地区センター→地蔵尊二体(目の地蔵さん)→長屋門→今宿神明社→

本立寺→弥勒塔→ふるさと尾根道緑道→今宿東公園→すずり石水跡→薬王寺・六つ塚→鎧の渡し緑道→鶴ヶ峰駅

 

主なポイントの写真紹介





 

西谷駅 

相鉄線西谷駅は、大正15年(1926)12月1日に神中鉄道の駅として開業した。

相鉄では、西谷駅からJR東日本および東急電鉄との相互直通運転を計画しており「神奈川東部方面線」計画は、西谷駅からJR東海道貨物線横浜羽沢駅付近で、JR東海道貨物線へ乗り入れる「相鉄・JR直通線」とJR東海道貨物線横浜羽沢駅付近から新横浜を経由し、東急東横線・目黒線日吉駅で東急線へ接続する「相鉄・東急直通線」を整備し、相鉄線とJR線、東急線との相互直通運転を行うものです。

 「相鉄・JR直通線」は平成31年度の開業を目指していましたが、東海道貨物線との接続部の工事の遅れなどにより、開業予定時期を平成34年度内とする計画に変更され、「相鉄・東急直通線」は平成31年度の開業予定。

 

 

 

 
   

猪子山

猪子山の由来は、いつの頃からか、この山に子連れのイノシシが集まるようになり、親のイノシシが子供を急斜面の崖の下に突き落としたといいます。これは、谷底から這い上がってきた強い子供だけを連れ帰り育てるためで、こうした光景から「猪子山」と呼ばれるようになったと云われます。これは今から200年位前の話で今は、宅地開発によって横浜興和台団地という街並みが築かれています。

 
   

帷子川分水路

 帷子川は県が管理する長さ17km、流域面積58㎢の2級河川で、国道16号線に沿って流れています。源流は若葉台で、途中で矢指川、二俣川、中堀川、新井川等と合流し、下流部では石崎川、新田間川(あらたまがわ)を派川し、最後は横浜港に注いでいます。

かつては蛇行していたため氾濫を繰返す暴れ川でした。特に昭和33年(1958)の狩野川台風で大きな被害をだし治水事業が始まりました。

河川改修事業として河川ルートの直線化と護岸工事が行われ、鶴ヶ峰付近は昭和63年(1988)に完成しました。

更に、総事業費1100億円の予算で分水路の工事が始まり、平成9年(1997)に完成しました。取水庭は帷子川が一定の水量(流量)を越えると、自然に堰を越えて分水路トンネルに流れ込むようになっています。

洪水時には最大毎秒350㎥(ドラム缶1750杯分)を分水して、横浜国大付近の地下を通り横浜駅付近の新田間川を経て、横浜港に放流します。

全長7560m、トンネル区間5320m、幅11.2m、高さ9mで、これは新幹線のトンネルより一回り大きく、水路トンネルとしては国内最大級を誇る大きさとなっています。

分水路周辺は、帷子川の新しい親水スポットとして楽しめるように植栽を初め噴水や園路など環境や景観に配慮した整備がされています。

 
   








白根村道橋(みちはし)改修碑

元文(げんぶん)4年(1739)に造立された「道供養塔」。

かつてから暴れ川といわれた帷子川は激しく蛇行していて、度々冠水に見舞われ、橋が流失するなど難所の道で、人馬の往来は容易でなく、特に長雨・雪降りの時は人馬ともに倒れて骨を折ったり、時には死ぬ人もいた。

宝永2年(1705)、江戸麻生の商人桜井茂左衛門が私財を投じ、全長186間(338m)と丸太橋3ヵ所を改修整備した。

横浜市指定の文化財です。 (和田にも同様の改修碑がある)

 
   

馬頭観音

この馬頭観音には「タエと若駒」と云う悲話が伝えられています。馬主米蔵の18歳になる一人娘「おタエ」は若駒と呼ばれる駿馬を可愛がり大切にしていました。ある時、若駒は急に苦しみだし、病に倒れてしまいました。おタエは神奈川在の獣医を迎えに行ったのですがそのまま帰りませんでした。家族が途方に暮れていると、若駒が一声いななき、そのまま姿を消してしまいました。

数日後、おタエは若駒に連れられて、ひょっこり帰ってきました。しかし、無理がたたってか若駒は帰らぬ旅につきました。

そこで、村人たちは若駒のために馬頭観音の石碑を立て供養しました。その供養が終わると、おタエも後を追うように帰らぬ人となったそうです。村人たちはおタエと若駒はあの世できっと結ばれたのだろうと噂をしていたそうです。

 
   

鶴ヶ峰坂

坂の長さ2町(218m)旧八王子街道の難所でした。

馬が一気に駆け上がるのは困難だったようです。

昔、この辺りに数軒の刀鍛冶屋があったと伝えます。

 

 

 

 
   

目のお地蔵さん

延宝3年(1675)村は大飢饉に見舞われ鳥目(夜盲症)になる人が続出しました。村人たちはこのお地蔵さんに救いを求めたところお地蔵さんから「大川(帷子川)に棲んでいるヤツメウナギを食べなさい。」とお告げがあり、ヤツメウナギを食べた村人たちはすっかり元気になったとか?。

それから、このお地蔵さん(左側)は目のお地蔵さんと云われるようになりました。又、このお地蔵さんは寛文9年(1669)年の建立で区内で確認されている石仏では最古のものです。

 
   



長屋門
長屋門

長屋門

長屋門は門構えの両側に長屋を付加した民族建築物の一つで江戸時代の大名や武家屋敷によくみられます。

長屋部分には、下級武士や使用人が住んでいました。又、納屋、家畜小屋、隠居所等にも使われていたようです。

横浜では、名主に限り建てることを許されたといいます。区内では、今宿西町で代々名主を務めた鈴木家に長屋門が残っています。建てられたのは江戸の末期で安政2年(1855)ペリーが二度目の浦賀を訪れるなど幕末の騒然とした時代でした。

 






本立寺 今宿西町574 


江戸大奥に起きた「絵島・生島事件」をご存知の方は、この寺が事件に大きく関わっていたことを御存じでしょうか?

 正徳4年(1714)将軍生母月光院夫人の名代として、上野寛永寺と芝増上寺に前将軍家宣の墓参に行った帰り、木挽町で芝居見物をしたのがきっかけで、役者の生島新五郎とただならぬ仲となり、兄勝昌は妹の行状を知りながら、さらに誘発した。まもなく、不行跡が発覚し勝昌は領土没収の上死罪。絵島は流刑。生島は島流しとなりました。

 その時、名主であった「武左衛門」(長屋門の先祖)が地頭の遺言を受け、享保3年(1718)に自分の土地に、荏原郡峰村にあった池上本門寺の末寺をこの地に移し、勝昌の菩提を祀ったのが、本立寺の始まりです。

勝昌とは、地頭の白井平右衛門勝昌であり、その妹が絵島だったのです。

 
   

 

弥勒塔

釈迦入滅後56億7000万年後に悟りを得て世の人々を救うようにとお釈迦様から云われた弥勒菩薩です。

京都の広隆寺にある仏で国宝指定第一号です。この広隆寺の弥勒菩薩に女子大生が抱きつき小指を折る事件がありました。

それ以来、仏像が近くで見れなくなったとか?

 日本における山岳信仰の歴史は古いが、山の頂上を弥勒浄土とみなし、弥勒信仰が盛んになったのは、平安時代からです。修験道の霊地として尊崇された富士山も、その頃から弥勒の浄土とみられました。したがって、富士山のことをいまでも霊峰富士と呼ばれるようになりました。 

 

 

 
   

すずり石水跡

重忠が陣を張ったとき、この水で墨をすったと伝えられています。重忠は妻への手紙に辞世の歌でもしたためたのでしょうか

重忠の地元、埼玉県川本町にはこんな歌があるとか?

「頼みがたきは世の常か、誠一途が謀反とは、恨みも深く二俣に、武士(もののふ)の意地、花と散る」

 
   

薬王寺

薬王寺は元今宿南町にありましたが、明治39年に焼失しました。昭和5年、畠山重忠の霊堂と共にこちらに移されました。

霊堂には重忠公の金箔の霊位が祀られています。

重忠の命日の6月22日には、各地の関係者が参加して盛大に慰霊祭が行われています。

又、この地は昭和初期に県下名勝史跡45佳撰に選ばれています。

 
   




重忠の墓(六つ塚)

境内には北条時政・牧の方の陰謀により、42歳の生涯をこの地で閉じた重忠はじめ、一族郎党134騎が葬られている六つ塚があります。

重忠公のお墓は何処に?この六つ塚は正式な墓ではありません。重忠公の墓は、生誕地の川本町の重忠公史跡公園内にある五輪塔様式の墓があります。菩提寺として埼玉に萬福寺があり、寺内には位牌が安置されている。

 

鎌倉釜利谷の東光禅寺には墓ではないが、五輪塔があり、薬王寺には重忠公の位牌と菊の前の位牌が有ります。

 

 
   

鎧の渡し緑道

「鎧の渡し緑道」とよばれる広場と鎧橋の下は、平成18年頃までは帷子川が流れていました。昔の絵図を見ると、「鎧の渡し」(別名、越っ場=こしっぱ)当時は川幅も広く、渡し舟がありましたが、先を急ぐ武士達は、鎧を頭に乗せて渡ったところからこの名がついたようです。

 「矢竹が渕」「屏風が渕」「鎧が渕」という三古淵がこの辺りにありました。それだけ帷子川が蛇行していたということです。

この緑道は、平成18年に完成公開されましたが、改修前の帷子川の流れは現在の駐輪場付近を半円状に周回し、鎧橋の下を通過して親水緑道方面に蛇行していました。

明治20年完成した日本最初の近代水道の水路管が帷子川を通過するときに設置されたのが鎧橋で、平成15年の道路改修時に現在のモニュメントになりました。

鎧橋から2.5km先に西谷浄水場があります。