金沢八景から牡丹を愛でながら称名寺へ

約4.3km 約6.700歩

  散策コース

金沢八景駅⇒瀬戸神社⇒琵琶島弁財天⇒姫小島水門跡⇒瀬戸橋⇒明治憲法創設の碑⇒龍華寺⇒称名寺⇒金沢文庫駅

 

金沢八景駅と金沢文庫駅名について

 鉄道の駅名は、そこ の地名をつけるのが通常ですが、この両方の駅は夫々、昭和5年に当時の湘南電気鉄道(京 浜急行の前身)が観光地を意識した粋な命名です。 いにしえから風光明媚をうたわれた名勝金沢八景の景観は、地形が大きく変わってゆく 中で、次第に変貌を始めました。そして歴史という夫々の時代背景の下で、人々の営みや 建造物の栄枯盛衰があり、興味は尽きません。こんなにいろいろな顔を持った地域は他に は見当たりません。ゆっくり散策して下さい。

 コースの前半は「金沢八景」の今はなき風光明媚な景色を想像して歩きます。そして時 代と共に開発が行われて、地形がかなり変わってゆく様子を見て行きましょう。(昔からの 地形が変わってゆく地図と、八景の広重の浮世絵の一覧表を資料として提供し、これを中 心に散策する。) そして後半は、鎌倉時代に遡って、金沢北条家の歴史と称名寺と金沢文庫を中心に、神 社仏閣の遺跡をじっくり探索しましょう。途中でのトイレは少なく、休憩は龍華寺と称名 寺になります。

 

 




瀬戸神社

この地は平潟湾と内海の出入 口に辺り、潮の干満によって急 流が生ずる“瀬戸”があり、古 来、海神を祀った祠がありまし た。源頼朝は伊豆で挙兵した時 に加護をもらった伊豆三島明神をこの地に勧請したのが 起源です。徳川家康も奥州への戦勝祈願にここを訪れ、裏 山からの景色を絶賛した家康の意向を汲んで、後にその裏 山に東照宮とその別当の圓通寺が造られた。


琵琶島弁才天

北条政子も夫にならって近江 の竹生島弁財天を勧請したも のです。この弁天様は立姿なの で、政子が尼将軍となったこと に因んで、立身出世の守り神と して信仰を集めました。島の形  が琵琶に似ていて、昔の八景の面影を残す場所でもありま す


姫小島水門跡

泥亀新田と姫江戸の湯島聖堂の儒官であ つた永島祐伯(号は泥亀 で い き )が 野島に移って新田開発を始 めたのが寛文 8 年(1668)で した。歴代の当主が約200 年にわたって、広大な入江の 埋立による新田開発に取組 んで7代目忠篤(号は亀 き 巣 そう )の時に、ようやく新田は完成し、 初代の号をとって「泥亀新田」と名付けた。姫小島の由来は 「照手姫と小栗判官」の伝承によると、姫がこの島で松葉 いぶしに遇ったと云うことから、この土地の人が哀れみ「姫 小島」と呼ぶようになったそうです。

 


明治憲法草創の碑
 伊藤博文は金子堅太郎、伊東巳代治、井上毅らと共に、料亭「東屋」に集まり、
明治憲法の立案の構想を練った。ある夜、東屋に盗賊が入り機密書類が盗まれ、幸い翌日発見され無事だったが安全のために会議の場所を夏島の伊藤の別荘に移し、この「夏島草案」をもとに明治22年に「大日本帝国憲法」が発布された。


龍華寺
真言宗御室派、本尊は大日如来。
創建は頼朝が瀬戸神社の別当寺として六浦にたてた「浄願寺」が始まりといわれる。

(1189 年)その後、戦乱により罹災、室町時代の 1499 年に、当時の 住職法印融辨が兼務していた寺前にあった光徳寺と合併 し、当地に移築、知足山龍華寺になったといわれる。800 年以上の歴史を持つお寺だけに貴重な宝物が所蔵されて います。

別名ボタン寺とよばれ、毎年四月中旬に15種200株が咲き多くの方が見学に訪れる。


称名寺  

鎌倉幕府の要人・北条実時が   六浦荘金沢の屋敷に亡き母 の菩提を弔う持仏堂が起源 とされる。その後、下野国薬 師寺の僧・審海を開山に招い て真言律宗の寺となった。実時の孫・貞顕の時代には三 重塔を含む七堂伽藍を完備した大寺院として全盛期を迎 え(1323 年)、金沢北条氏一族の菩提寺として発展した。 金堂前の阿字ヶ池を中心とする浄土式庭園で四季折々の
景観が美しい。ご本尊は弥勒菩薩で宋風彫刻の典型的名 品で国の重要文化財です


金沢文庫
   北条実時は学問好きの政治家で鎌倉を中心に金沢家に  必要な典籍や記録文書を集め、収集した和漢の書を保管する書庫を金沢郷に創設。

 文庫は実時の蔵書を母体に拡充され、金沢貞顕が六波羅探題に任じられ京都へ赴任すると、公家社会と接する必要もあり収集する文献の分野も広がり、貞顕は自らも写本を作成し「善本」の収集に努めた。

 然し幕府滅亡によって文庫は称名寺の塔頭に移され管理が不備になり、蔵書も多くが後北条氏、徳川家康、前田綱紀らによって持ち出された。

 明治になって、伊藤博文らの尽力により文庫が復興され、旧蔵書の回収も進められた。

 明治30年(1897)称名寺大法院跡に石倉の書庫が再建されたが金沢文庫は関東大震災で失われ、昭和5年(1951)に当時金沢に別荘を持っていた「博文館」の社長で貴族院議員であった大橋新太郎氏の努力で県知事を動かし、県と自費と半々で、最初の県立図書館として復興した。

 昭和30年(1955)に登録博物館となり、平成2年(1990)に新築され、現在は歴史博物館となっている。