旭区の古道

区内には次の五つの古道が確認できます。

 ①鎌倉「中の道」

 ②八王子街道

 ③中原街道

 ④相州道

 ⑤武相国境道

古代の律令国家では、都を中心にして各国々を結ぶ官道が整備されていた。その当時の東海道は、相模の国走水(現横須賀市)から現在の東京湾を渡って上総国に至るのが正規の道筋だった。

 10世紀の平安時代からは、相模国大住(平塚あたり)から相模川を渡り都筑に入り多摩川を渡る官道が東海道になった。その後の「矢倉沢街道」に沿ったルートであったと考えられる。

それに並行して相模から武蔵にかけて直線的に走っている道が、後の「中原街道」であり、昔から官道として機能していたのではないかといわれている。

 また近世になっても江戸を中心に、相模の国に通じる道は、広く「相州道」と呼ばれていたらしい。

「中原街道」も大山道も厚木街道もすべて「相州道」の一つだった頃があった。

 

            旭ガイドボランティアの会 村田啓輔

 

 

旭区の古道(旭区誕生40周年記念誌より)
旭区の古道(旭区誕生40周年記念誌より)


①鎌倉「中ノ道」

 さらに中世に入ると鎌倉幕府を中心とした「いざ鎌倉」への道、鎌倉街道が上ノ道、中ノ道、下ノ道に大きく分かれてはいるが、横浜市域を北から南に走っている。

旭区域でも「中ノ道」が中山から上白根、鶴ヶ峰本町、区役所脇を抜け、南本宿を経て、現在のこども自然公園辺りから南下していたという。

 畠山重忠が北条軍に待ち伏せされた鶴ヶ峰の古戦場もこのルート上にある。

 当時の道は殆どが尾根道を通り、戦いの道であり、庶民の生活の道ではなかったので次第に消滅していった。

 戸塚カントリー脇の旧跡都塚からは鎌倉が望めたという。


②「八王子街道」

徳川幕府は江戸を中心に五街道を整備し管理した。

元禄時代以降になると諸産業や商業の発達に伴い、各地域間の交流が盛んになり脇街道が発達した。

八王子街道は東海道と甲州道を結ぶ連絡道であり、荷駄の運搬や大山参詣への道筋の一部として利用されていた脇街道である。

街道筋の産物は薪や炭が多く、帷子川の流れを利用して河口まで運ばれていたようだ。横浜開港後は横浜から輸出される生糸や、絹糸を運び、逆に輸入された綿製品などの物資が北上する道として脚光を浴び、のちに「シルクロード」名をもらった。

 東海道は芝生の追分(西区浅間町)から分岐し、現在の直線化されてた国道16号を左右に蛇行しながら旧道を辿ってみよう。道端の各所に庚申塔、地神塔や道祖神等の石仏、石塔や旧い年号が刻まれた道標が見られるのは古道の証である。和田町にかかる頃から、この街道が帷子川と左右の山裾との間を縫ったり、小高い丘を上下して通ったりしていることがわかる。保土ヶ谷中学校の入り口に立つ、「和田新道改削碑」や中堀川の分岐点近くに、「白根道橋改修供養塔」が見られるが、いずれも川と山の接近した崖地などの通行の難所であったことがわかる。

横浜開港後、八王子方面から鑓水峠を越えて町田に入った後は、生糸を港まで運んだメインルートは、起伏の多い八王子街道より、はるかに平坦な鶴見川沿いの神奈川道がもっぱら使われていたのだはないかという説が有力になろう。


③「中原街道」

 中世以前から武蔵国と相模国を直線の最短距離で結ぶ古道が「中原街道」としてクローズアップされたのは、天正18年(1590)に徳川家康が江戸に入府以来、現在の平塚市中原に中原御殿(宿泊所)を築き、江戸と駿府の往復に利用したり、鷹狩りに行ったりした道になってからである。

後に二代将軍秀忠は、丸子多摩川を渡った小杉にも御殿を建てた。(慶長13年・1608)。

東海道の宿駅制度が機能する(慶長6年・1601)前後に、将軍家の緊急の旅や、東海道が参勤交代などで交通渋滞をきたすような場合に脇街道として利用したと思われる。

同時に江戸の発展と共に沿道地域の産物の江戸への輸送路でもあった。

 脇街道であったので東海道のような宿駅は設けず、荷物等の受け渡しを行う立場を小杉、佐江戸、瀬谷、用田の四か所に設けた。

八王子街道と交差する「都岡の辻」は近くに御殿丸という家康の休憩所があったといわれ、帷子川に架かる橋を「御殿橋」という。また明治に入ると、郡役所、郵便局、小学校が早くから立ち並び交通の要衝であった。

旧道を辿ってみよう。一つはズーラシアへの入り口近くに小池という灌漑用の池があった。ここから今のふるさと尾根道緑道への急坂はかなりきつかったので中原に向かって左側に迂回路が残っている。

もう一か所は、下川井インターから保土ヶ谷バイパスを潜って左手の階段を上る。先には見晴らしポケットパークや岩船地蔵があり、この道が尾根道であることがわかる。

このあたりの片側二車線の広い直線道路からは古道の存在など想像ができない。


④「相州道」

「相州道」は、保土ヶ谷神明社の角から入って帷子川西岸を八王子街道と並行して北行し、和田町から西谷の浄水場のある山を横切って下り、保土ヶ谷高校の脇を再び上がって三反田へ降りる。この一帯には古い石仏石碑が処々に見られる。

 保土ヶ谷バイパスをくぐり相鉄線を跨ぐと、二俣川小学校の脇あたりで旧道はだらだらと上りにかかる。県立公文書館の裏を抜け、この付近で一番高い春の木神社の横を通り三ツ境駅に下る。先は瀬谷を経て大和市深見から厚木に至る。また一説では保土ヶ谷駅~桜ヶ丘~新桜ヶ丘~市沢町~三反田~(以下は前期に同じ)というルートもある。

 江戸時代中期以降になると、関東中心に庶民の間にも大山信仰が深まり、大山につながる近道として、相州道も大山詣でで「大山道」という別名でよばれたこともある。

横浜開港後は間道として厚木方面から直接、生糸や物資が運ばれた。江戸時代から明治中期まで賑わった旧道である。


⑤「武相国境道」

「こども自然公園」内の青少年野外活動センターの手前の遊歩道を登ると石碑がある。「武相堺道 北武蔵国 南相模国」。昔の国境を表す道しるべである。解説によると、国境の尾根道が現戸塚カントリーの入り口付近まで続いており、途中には都(鎌倉)を一望できる都塚があったとのこと。現在の都塚は公園よりの道沿いにある。

 横浜の古道(横浜市教育委員会発刊)によれば、戸塚、泉、瀬谷との区境地は武相国境と記されている。この辺りの武相国境は、地形から尾根沿いとなっており、今でも区境道を歩くとそれがうかがえる。

 泉区境の柏町グランド沿いの道に、武相国境の道しるべの石碑が二か所ある。新中川病院から明神台処分地を経て横浜隼人高校前に至る昔の尾根道の面影が見られる。

新幹線の跨線橋を渡ると瀬谷区との区境となる。

三ツ境駅までの道沿いは住宅開発が進んでいるが、左側に丹沢に連なる富士山を見ることができる。

かつては旅人の疲れを癒す絶景のポイントが各所にあったと思われる。

三ツ境駅手前の三ツ境橋の由来は、武蔵国都筑郡都岡村、二俣川村と相模国鎌倉郡中川村との境地であったので付けられたとも言う。

 三ツ境駅から、桜並木を経て、旧中原街道を渡り、聖マリアンナ病院前を通り、信号を左折し、瀬谷高校前まで区境道は続く