6A 旧都筑郡から旧たちばな郡へ帷子川を下る (約6.5km)

昭和の初めころまでは、この一帯は山と水の風光明媚な市民の散策地でした。

 このコースのねらいは

①旭区から保土ヶ谷区にかけて帷子川の治水の歴史があった。  

②川の流域の村民の生活は、川をどう活用したか?

③隠れた文化遺産。横浜水道の歴史は?

 これらをコンセプトに歴史をひも解いてみようと思っています。  

 

   

コース

鶴ヶ峰駅→帷子川親水緑道→帷子川分水路→田原橋公園・水車小屋跡→逆田橋公園→西谷地区センター→保土ヶ谷の田んぼ元気村→随流院→両郡橋→

蔵王高根神社→仏向・杉山社→正福院→仏向町石塔→和田村道橋改修碑→和田地蔵→和田駅

 

 

 


帷子川親水公園
帷子川親水公園

帷子川親水緑道

開園 平成元年12月(約1.6ha 4,654坪)

「池と庭園」「広場」「せせらぎ」の3つのゾーンがあります。

昭和50年 本流改修工事着工~56年完了   

昭和63年 帷子川親水公園完成

平成12年 愛護会結成           

平成18年 ホタルの会結成

平成20年 都市景観大賞美しい街並み特別賞受賞

 

帷子川の治水対策のため河川改修により生じた旧河川部分と、河川沿いに残っている豊かで貴重な自然を最大限活用し、雨水の貯留機能を持たせると共に、市民が楽しめる憩いの空間として、横浜市が整備しました。

 

この景観の維持は、地域住民の公園愛護会(鶴ヶ峰自治会-白根町内会-屋敷町内会)の活躍によるところが大きく、民間と行政が協力し、ハード・ソフトを含めた総合的な取り組みが行われている地区として、国土交通省後援の「都市景観大賞・美しい街並み賞」を平成20年に受賞し、

平成12年度にはふるさと尾根道が都市景観大賞を受賞しています。

 

 

なお最近は、蛍の舞う里作りを目指した活動が展開されています。



帷子川分水路

 帷子川は県が管理する長さ17km、流域面積58㎢の2級河川で、国道16号線に沿って流れています。

源流は若葉台で、途中矢指川、二俣川、中堀川、新井川等と合流し、下流部では石崎川、新田間川を派川し、最後は横浜港に注いでいます。

 

かつては蛇行していたため氾濫を繰返す暴れ川でした。特に昭和33年(1958)の狩野川台風で大きな被害をだし治水事業が始まりました。

 

河川改修事業として河川ルートの直線化と護岸工事が行われ、鶴ヶ峰付近は昭和63年(1988)に完成しました。

更に、総事業費1100億円の予算で分水路の工事が始まり、平成9年(1997)に完成しました。

取水庭は帷子川が

一定の水量(流量)を越えると、自然に堰を越えて分水路トンネルに流れ込むようになっています。

洪水時には最大毎秒350㎥(ドラム缶1750杯分)を分水して、横浜国大付近の地下を通り横浜駅付近の新田間川(あらたまがわ)を経て横浜港に放流します。

 

全長7.560m、トンネル区間5320m 、幅11.2m、 高さ9mで、これは新幹線のトンネルより一回り大きく、水路トンネルとしては国内最大級を誇る大きさとなっています。

分水路周辺は、帷子川の新しい親水スポットとして楽しめるように植栽を初め噴水や園路など環境や景観に配慮した整備がされています。

 

帷子川の洪水想定図

相鉄線に沿うように流れる帷子川。横浜駅付近で海にそそぐ2級河川、その支流で最大級の洪水が起きた場合の浸水想定図が公表された。(24時間に390ミリ降雨時)

 

横浜駅周辺は広範囲に浸水し、浸水時の水位は東口で最大8.5m、西口で5.4mと深刻な予測となった。

流域が宅地化され、川幅も狭い帷子川は典型的な都市河川で大雨の際は水位が上昇しやすく、過去にも横浜駅周辺などで浸水被害を繰り返してきた。

相鉄線の平沼駅~和田町駅までは12m位浸水する予定。

 

保土ヶ谷区役所で2.7m、源流に近い若葉台団地周辺でも浸水するとされる。川のごく近傍では氾濫時の河岸浸食で家屋が倒壊する危険もあるという。


田原橋公園で釣りを楽しむ
田原橋公園で釣りを楽しむ

田原橋公園(水車小屋跡)

昭和63年(1988)に開園。面積7,150㎡で元は帷子川の河川ルートでした。

昭和33年(1958)頃まで、直径(2丈3尺 7m)の木製水車(流域では最大級)があって精米をしていました。

田原橋公園前の道は元の水道道で、昔の面影を残している場所です。

 

[保土ヶ谷に象が?]

横浜に分布する地層から三種類の象の化石が産出している

①大正2年 港南区から東洋象の40万年前の化石

②昭和9年 鶴見川河口の下末吉層からナウマン象の化  

      石

③昭和45年 南区からナウマン象の化石

④昭和50年 金沢区の小柴層から150万年前のアケボノ象の化石

 

⑤昭和63年 保土ヶ谷区東川島から13万年前のナウマン象の化石が産出



[西谷駅] 

「神奈川東部方面線」計画は、西谷駅からJR東海道貨物線横浜羽沢駅付近で、JR東海道貨物線へ乗り入れる「相鉄・JR直通線」→「相鉄新横浜戦」と命名。2019年度開業予定。

 

JR東海道貨物線横浜羽沢駅付近から新横浜を経由し、東急東横線・目黒線日吉駅で東急線へ接続する「東急新横浜戦」

2022年下期に開業予定。

 

相鉄線とJR線、東急線との相互直通運転を行うものです。


ほどがや元気村

「西谷の田んぼ」「三村さんの田んぼ」として区民から親しまれています。面積は、水田が約600坪、畑が約300坪あり、保土ヶ谷区では唯一の田んぼです。   

 

小中学生による田植え・稲刈りなどの体験学習が行われていて、米の品種はキヌヒカリで、収穫量は約750kg(約12俵)の収穫があります。

 

平成21年度からは、「保土ヶ谷元気村」として区民による村づくり活動に発展しています。

 

 

 ちなみに、旭区の田んぼは、こども自然公園の教育水田と追分・矢指市民の森の端と2カ所あります。



髄流院
髄流院

隋流院

室町時代の中頃、臨済宗の寺として創建された「観音寺」という小庵でしたが、現在は曹洞宗です。本尊は観世音菩薩で、慶安元年(1648)には徳川家三代将軍家光公より観音堂領3石余の朱印地を下付されました。

 

現在も、当時の朱印証箱、朱印札、住職が江戸城への年賀登城の際に使用した駕籠が本堂に保管されています。

 

また、門前には、禁葷酒(きんくんしゅ)の碑があります。にら、ねぎなど匂いの強い野菜と酒、については、「葷酒山門に入るを許さず」とあり、仏門の厳しさを感じさせます。

 

梵鐘は昭和53年(1978)再鋳されたものですが、「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪をえて すずしかりけり」とあります。この歌は、道元禅師が詠んだものですが、川端康成がノーベル賞受賞時に挨拶の中で引用しました。

 

また、旧小机領33観音霊場巡りの第6番札所となったのは、宝暦6年(1756)です。

明治6年(1873)、川島学舎(川島小学校の前身)が置かれました。



両郡橋
両郡橋

両郡橋

明治20年(1887)、日本で初めて近代水道が、津久井郡三井村から横浜野毛山の浄水場まで敷設されました。その時、この水道管に沿って人馬の往来ができるようになり、この橋が架けられたのです。

 

都筑郡上星川村と橘樹郡坂本村の境にあったので、両郡橋と名付けられました。

 

橋の上流には堰が作られ、仏向、下星川(現星川)神戸三村の水田用の用水路が掘られ、その近くには水車があったと伝えます。



[旭~保土ヶ谷の帷子川の治水の歴史]

暴れ川として知られてきた帷子川は、上流では田や畑に、中流では捺染に、下流では港に物を運ぶ水路の役目を果たしてきました。

 

特に捺染は保土ヶ谷の地場産業として広く知られ、帷子川と共に発展してきました。スカーフの歴史は古く横浜開港に始まります。

明治22年仏商人が羽二重のハンカチに型を捺染し、日本の輸出品に仕上げてから急増しました。

その頃から、上星川あたりに、富士紡の前身の日本絹綿紡績が進出し、周辺は大岡川と並びスカーフの水洗い風景が風物詩となったが、その後水質汚染や製作技術の変化により昭和60年頃には全く見られなくなった。

 

水車は帷子川中流域を中心に盛んに利用されました。最盛期は明治から大正にかけての頃で、昭和に入ってからも戦前まで利用されてきました。主に精米、製粉で各村では順番を決めて利用する盛況ぶりでした。中でも西谷の大和屋の水車(現、田原橋公園内)は、直径4.5mもある巨大なもので、子供たちが親に手を引かれて遠方より見学に来るほどでした。

 

逆田橋公園内にも板津の水車小屋跡があり、下流部には両郡橋辺りまで水車が見られました。旭区の水車は当時、二俣川、帷子川、矢指川、中堀川合計で11カ所ありました。

船運については、現・常盤橋付近までは川も浚渫(しゅんせつ)されていて、満潮時はここまで船が上がり、潮の干満を利用し船運が盛んに行われていました。

 

和田町辺りまでは平坦で何とか水路も確保できたが、両郡橋から上流になると固い岩盤と巨石に阻まれました。

 

「スカーフ」

横浜スカーフから出発しジャパンシルクと云われるまでになり、一大産業に発展しました。

開港後の手巾と云う絹のハンカチが起源とされる。明治20~30年にかけて「輸出ハンカチの縁かがり」をする加工内職が全盛を極めた。伊勢佐木町の賑い座の関三之助がハンカチ女の人気になった。

 

明治の中期、型紙を使い、捺染台に調合した染料をゴムヘ

ラで染色する(木版画とほぼ同じ手法)方法であったが、

昭和初期に感光製版技術であるスクリーン捺染が開発さ

れ大量生産が可能になった。

 

以後、昭和30年代までは、染料を洗い落とすため、西谷

~上星川間の帷子川はプリントされた25mもある絹が

泳ぐ姿が一代風物詩となった。当時は日本のスカーフの

輸出量の90%を横浜が占めていた。

 1870年に輸出が始まり、昭和に入ると大きなスカーフとなり、戦後真知子巻きで一世を風靡した。


 

蔵王高根神社   

創建年月は不詳ですが、坂本村には古くから蔵王社と高根社という2社があって、村民から崇敬されていました。

 

明治43年(1910)、明治政府の「一村一社」の政策によって、2社とも矢崎村(明治22年に仏向村と坂本村が合併)の杉山神社に合祀された。

 

しかし、その後も村民は社殿を残して遥拝し、昭和24年(1949)には、氏子の強い希望により、再び御神体を移して「蔵王高根神社」として独立した。

 

 

 


「一村一社政策」

明治39年(1906)、勅令により「神社合祀令」を発布し、一町村一社を原則として神社の統廃合を推進した。これは複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させるか、もしくは一つの神社の境内社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって神社の数を減らす神社整理であった。

 

この目的は、神社の数を減らして残った神社に経費を集中させることで、一定基準以上の設備・財産を保有させることによって神社の威厳を保たせ、神社の継続的経営を確立させることであった。

 

また、一町村一社の基準を適用させることによって、

神社の氏子区域と行政区画とを一致させることによって、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとする

神社中心説の考えであった。

 

この政策は、明治39年(1906)から大正3年(1914)まで実施され、全国約20万社あった神社のうち約7万社が取壊された。

 

この結果、稲八金天(いなはちこんてん)神社、即ち稲荷神社、八幡神社、金毘羅神社と天満宮が一緒くたになった神社が出現することになった

 

この政策は旭区においても実行され、今宿神明社は、明治初期に第六天社と稲荷社を合祀し、更に大正2年に日影稲荷社と鶴ヶ峰神社を合祀した結果、五社宮と呼ばれた。

 

その後、昭和39年、鶴ヶ峰神社の氏子会の強い要望により、鶴ヶ峰神社が元の場所に返還された。


[薬師堂]

薬師堂に上がる階段の下には、明治39年(1906)建立の馬頭観世音の石塔がある。 また、薬師堂敷地内には、

左手前に庚申塔(元禄9年、1696年)、

左奥に地神塔(文化11年、1814年)、

右奥に念仏塔、

 

右手前に珍しい指差し道標が在る。



仏向杉山神社

創始年代は不詳。 五十猛命(イソノタケルノミコト)=(スサノオノミコトの子=植林の神様)および日本武尊(倭建命)を主祭神とする神社です。

 

杉山神社は、鶴見川・帷子川・大岡川水系と多摩川の右岸(川崎市・稲城市)に存在、 多摩川を越えた地域には存在しない。現在、宗教法人登録しているのは計44社でうち横浜市には35社あります。保土ヶ谷区では神社16社のうち杉山社が6社。一方、旭区では杉山社は0社で、神明社は8社あります。

本地(ご神体)は一尺七寸の不動明王立像で、村の鬼門除けとして丑寅の方角(北東)に祀られ、明治には村社に指定されました。

 

平成5年(1993)、宮崎跨線橋の建設のため、仏向町バス停付近に在った社をここに遷座させ、同時に村内の神明社と稲荷社もここに移りました。また、鳥居の近くには力石が置いてあります。

 

「五十猛命」(イソタケルノミコト)

八俣大蛇退治の舞台となった斐伊川の上流の鳥髪(とりがみ)、現在の島根、広島、鳥取の県境に横田町がある。

 

船通山に源流があり、宍道湖に注いでいるが、この辺り一帯は良質の砂鉄の産地である。現在も、横田町に世界で唯一古来の製鉄技法「たたら製鉄」の技法の会社がある。

 

 砂鉄を三日三晩かけて焼き続けて、「ケラ」「ズク」と云われる鉄製品を作る材料を取り出す製法ですが、それには大量に使用する木炭を確保する必要があった。その為に木々が伐採され、付近の山々が禿山になったと云われます。

 

伊賀多気(イガタケ)神社(祭神五十猛の命)の由緒によると、鉄を作るため周囲の山々を禿山にしたオロチ族を、スサノオの命と共に倒し、後に、住人と共に禿山に樹木の苗を植え、植樹、造林を進めたとあります。

 

八俣大蛇退治は、実在の人物オロチ族であると云う説も有力とされ、したがってこれだけ有名な八俣の大蛇退治の話が地元の出雲風土記には記載がないと云う説がある。


正福院 

もとは、永享元年(1429)、栄叟梵昌(えいそうぼんしょう)和尚が開山した栄叟寺(えいそうじ)でした。その後一時廃寺になったが、万治年間(165861)のころ小机雲松院の明山宋鑑和尚が中興しました。

 

尭室(ぎょうしつ)和尚が小田原北条氏の殿様に初めて謁見した時、「願いがあれば申してみよ」と問われ、「私は出家の身なので特に希望はないが、ただ常に仏に向かうことが本意である。ついては寺の山号と村里の名前に『佛向』の2字を賜りたい」と述べてこれが許されたと云う。

または、「仏向」という字は、元は「仏餉(ぶっしょう)」と書いたとも云う。

 

神社への御供えの米を作る田を「神田(じんでん)」と呼んだように、仏寺に奉ずる田を「仏餉田(ぶっしょうでん)」と云い、それがここに在ったとも云われています。

 

 

参道を入った正面に、樹齢300年あまりで高さ36mの大イチョウが2本聳立っています。



 

仏向町石仏

杉山神社が坂本小学校の裏に遷座した跡地に、3基の石塔が残されています。右から

①斎上地神塔→農作物の豊穣を祈る神で文化9年(1812)の造立。武神像

②出羽三山供養塔→山岳信仰の神で安政2年(1855)造立。台石が三重

③観音庚申塔→庶民信仰の神で寛保2年(1742)造立。舟形

「一村一社政策」

明治39年(1906)、勅令により「神社合祀令」を発布し、一町村一社を原則として神社の統廃合を推進した。これは複数の神社の祭神を一つの神社に合祀させるか、もしくは一つの神社の境内社にまとめて遷座させ、その他の神社を廃することによって神社の数を減らす神社整理であった。

 

この目的は、神社の数を減らして残った神社に経費を集中させることで、一定基準以上の設備・財産を保有させることによって神社の威厳を保たせ、神社の継続的経営を確立させることであった。

 

また、一町村一社の基準を適用させることによって、

神社の氏子区域と行政区画とを一致させることによって、町村唯一の神社を地域活動の中心にさせようとする

神社中心説の考えであった。

 

この政策は、明治39年(1906)から大正3年(1914)まで実施され、全国約20万社あった神社のうち約7万社が取壊された。

 

この結果、稲八金天(いなはちこんてん)神社、即ち稲荷神社、八幡神社、金毘羅神社と天満宮が一緒くたになった神社が出現することになった

 

この政策は旭区においても実行され、今宿神明社は、明治初期に第六天社と稲荷社を合祀し、更に大正2年に日影稲荷社と鶴ヶ峰神社を合祀した結果、五社宮と呼ばれた。

 

その後、昭和39年、鶴ヶ峰神社の氏子会の強い要望により、鶴ヶ峰神社が元の場所に返還された。


和田村道橋改修碑

元文(げんぶん)2年(1737・8代将軍吉宗)に造立された「道供養塔」です。

高さ103cm、幅34.5cm、厚さ21cmの碑に、改修工事の由来が記されています。

 

昔から八王子往還は和田村の山中を通っていたが、甚だ

難所で、人馬の上り下りが容易でなく、一歩一歩が危険であった。特に長雨・雪降りの時は、得てして人馬が共に倒れて、腰を打ったり骨を折ったり、時には死ぬ人もあったと云う。

 

これを解決するために地元で改修工事を計画したが、その費用を出すことができなかった。江戸麻生の桜井茂左衛門が資金提供を申出たので、村民が協力して八王子往還の難路を改修し、和田山の腰すそを切開き、3カ所に石橋を架けて平易な道にした事が記されています。

 

[白根村道橋(みちはし)改修碑]白根2丁目の岩崎家前

元文(げんぶん)4年(1739・8代将軍吉宗)に造立された「道供養碑」。

かつてから暴れ川と云われた帷子川は激しく蛇行してい

て、度々冠水に見舞われ、橋が流失するなど難所の道でし

た。江戸麻生の商人・桜井茂左衛門が私財を投じ、全長186

 

間(338m)と丸太橋3カ所を改修整備しました。



⑭和田地蔵

元禄2年(1689)建立の「阿弥陀像の庚申塔」。和田町では昭和の初めころまで庚申講が盛んであったと云います。

地元では商店街の守り神とされ、「地蔵様」と呼ばれています。

 

 

お祭りは毎年8月23日・24日で、今でも商店街を挙げて盛大に行われています。